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伊奈町の文化財

埼玉県指定記念物(史跡) 伊奈氏屋敷跡

障子堀、二の丸、表門、裏門など、400年以上に亘る歴史の証

ぐるりと木々に囲まれているエリアが伊奈氏屋敷跡(空撮)

伊奈氏屋敷跡は、伊奈町ゆかりの偉人、伊奈備前守忠次(ただつぐ)公が400年以上も前の天正19(1591)年に築いた遺構です。元和4(1618)年忠政が死去し、忠治が築いた川口市赤山の陣屋に機能が移るまで、この地(小室丸山)が地方支配の中心でした。東西約350m、南北約750mの楕円形の地には、当時を偲ばせる土塁、堀、道が現存し、表門、裏門、蔵屋敷、陣屋などの名称も伝承されています。
昭和 9(1934)年 3月31日に埼玉県指定記念物(史跡)になりました。

 

今も伊奈町を見守る伊奈備前守忠次公

ようこそ伊奈町へ 忠次公を顕彰する案内

伊奈町の要所には伊奈備前守忠次公の姿を看板や案内に見ることができます。民衆の立場に立った善政により領民から尊敬を受けた忠次公の祖先は、出身の信州伊那郡(長野県)の地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。

忠次公は天正2(1574)年<24歳>一向一揆に加担し父と共に三河国(愛知県)を追われ、天正10(1582)年<32歳>本能寺の変で徳川家康の伊賀越えに加わり頭角を表しました。天正18(1590)年<40歳>徳川家康の江戸入国では代官頭(後の関東郡代)に任じられ、天正19(1591)年<41歳>北の要として小室丸山に陣屋を構えました。慶長15(1610)年<61歳>病のため亡くなりました。
※年齢は目安です。

忠次公と伊奈一族は、関八州の天領(幕府直轄地)の統治、治水・新田・検地などの基盤整備に大きな功績を挙げ、徳川幕府を支えました。備前堤、代官堀、伊奈神社など忠次公と伊奈一族を称える名称や史跡が県内外に数多く残されています。

 

徳川家康の江戸開城と共に始まった伊奈氏陣屋

小室陣屋内部の図(個人蔵)

戦国時代が終わり、安土桃山時代に入った頃、天正18(1590)年に徳川家康が関東に移封され江戸に入国します。忠次公は、北条氏の影響も残る江戸の北の防壁の要として、この地に陣屋を築きました。

当時、この地には無量寺閼伽井坊という有力寺院がありました。陣屋を構えるために倉田(桶川市)の明星院に移したと言われています。また、それ以前に丸山城という城郭があったと伝えられます。発掘調査で古い時代の障子堀遺構も発見され、忠次公は古い城郭を利用して陣屋を築いたと考えられています。

障子堀 落ちた武者は身動きが取れなくなる

発掘時の障子堀

(現在は保護のために埋め戻されています)

陣屋跡の周囲は関東ローム層の湿地で近世まで沼が点在していました。陣屋の周囲は小高い土塁と堀や沼で囲まれ、裏門跡にみられるような障子堀も設けられていました。発掘された障子堀は、幅約5m、深さ約2mの堀を高さ1.5mの土塀で区切り、上から見ると障子のような形をしています。底は沼地で、障子堀の中に落ちた武者は身動きが取れなくなりました。
現在は埋め戻して保護されていますが、400年以前の姿を残した貴重な史跡です。

伊奈氏屋敷跡は、安土桃山時代から江戸時代初期の姿を彷彿させる貴重な史跡です。
幼少から才能豊かな忠次公が24歳で城を追われ、どのような経験を経て、治水土木の知識、人心把握の才能を身に着けていったか想像するとワクワクしてきませんか。陣屋跡という400年に亘る実物から今に残る歴史の痕跡を紐解くのも楽しいものです。

 

所在地  埼玉県北足立郡伊奈町小室185ほか
文化財指定 埼玉県指定記念物(史跡) 伊奈氏屋敷跡
昭和 9(1934)年 3月31日指定

 

伊奈氏屋敷跡 〈伊奈町の名前の由来となった伊奈忠次が築いた屋敷跡〉も合わせてご覧ください。